1 健康度の高いK小学校の教育活動
2 「教室はまちがうところだ」を全校朗読詩とするK小学校
3 「学習指導案」の作成より重視すること――板書で学ぶ夕べ
4 同僚による授業参観の日常化――「授業参加」する教師たち
5 手軽にでき,手軽に活用できる授業記録ノートの存在
1 健康度の高いK小学校の教育活動
だんだん秋の深まりを感じる季節になりました。暖かな秋の色が少しずつ冬色に近づいてきています。みなさんお変わりありませんか。つるべ落としの秋の夕暮れが茜色に染まって……ほんとうに誰でも不思議なくらい感傷的な気持ちになることでしょう。
私も10月,11月と超多忙な日々になりました。多くの学校との出逢いが,私に元気のおすそ分けをしてくださいました。学校を元気づけるために出かけているはずの私が,逆に元気と癒される気持ちを抱えきれないほどいただいて,帰ることもしばしばです。
さて,今回は前回に引き続いて,K小学校のことを書き綴りたいなと思います。前回にも言いましたように,この学校へ通い出して8年目を迎えます。初年度の頃にいた先生も,今はほとんどこの学校に勤務していません。みなさん,人事異動でそれぞれの任地へ転勤されて行きました。
でも,K小学校は健在です。ちゃんと新たに赴任してきた先生方にバトンは引き継がれて,健康度の高い教育活動が行われています。いや,そのまま引き継がれているというよりも,少しずつ改変されていきながら,新鮮な感覚での取り組みがなされているのです。
そんなK小学校の取り組みで,私の垣間見たいくつかをここに紹介したいなと思います。
2 「教室はまちがうところだ」を全校朗読詩とするK小学校
みなさんは,蒔田晋治先生のお書きになった「教室はまちがうところだ」の詩をご存じのことでしょう。蒔田先生は,静岡市のほうで,数学の教師として長くご活躍された先生です。その先生が,自分の担任する数学の授業で,この詩を掲げて呼びかけていました。それがいつの間にか,多方面の学校や心ある教師たちの心を揺さぶりました。数学というもっとも間違いと正解のはっきりしているはずの教科で,「教室はまちがうところだ」と言われたのですから,とてもセンセーショナルなことでした。
今では,この蒔田先生のこの詩は,絵本にもなっていますよね。
K小学校では,この詩を全校朗読詩として取り上げて,全校集会や学年の集まりで事あるごとに,朗読するのです。もともとこの詩は,かなりな長い詩です。一度や二度読んだだけでは到底覚えられません。でも小学生はすごい力があるのですね。この長い詩を暗唱して朗読することにも挑戦するのです。K小学校の体育館に,「教室はまちがうところだ,そんな教室つくろうや」という朗読の大きな声がひびき渡ります。
K小学校の先生方は,「答えが合っているか,間違っているか」を問題にする授業をしません。「やろうとして挑戦することを大事にする」教育をしたいなと,ずっとずっと考えてきました。間違えたときに,笑い声の起きる教室を断じて許しません。その子どもの健気ながんばりを称賛することを第一にしているのです。
K小学校の廊下や渡り廊下には,この詩の一部が,黒々と達筆な筆で描かれています。学校全体の学び舎が,子どもたちや教師たちに,「私たちは,たくさんまちがえてかしこくなるのだよ」と呼びかけているようです。その子が一生懸命がんばったことを認めていく姿勢を,崩さないようにしているのですね。
全校朗読は,ある時は学年単位で,ある時は全校で・・・・そんな取り組みが,子どもたちに居心地のよい学校にしているように,私には思えました。
3 「学習指導案」の作成より重視すること――板書で学ぶ夕べ
H教頭先生のおられた頃からですが,K小学校では,夕刻迫る教室で,一人二人集まった教師たちが,黒板を前にして語り合う光景がよく見られました。いや,私は実際には見ていません。見ていませんが,それがK小学校の風物詩になっていることをずっと知っています。
私たちは公開授業をする場合,まずは「学習指導案」なるものを作ります。それを作ると公開授業の準備ができたと思いがちになるのです。ところが,K小学校は少し違います。「学習指導案」を作ることよりも重視していることがあるのです。
それは,「明日の授業の板書」作りを語り合うことです。明日の授業を終えたとき,どんな板書に仕上がっているだろうか,それをあれこれ子どもの意識を探りながら,想定していくのです。三々五々集まってきた教師たちが,子どもの立場に立って・・・・「こんな意見も出るかもしれないよ」「こちらへ話題が広がっていくかもしれない」と模索していきます。
それは授業する教師が,独りで考えているとはまったく違った多様な考えを,授業者に想定させていくことになるのです。6年生の歴史の授業で,「鎌倉武士のやかた」の絵図を見ながら,「子どもたちが,どんなところにこだわりながら,この資料から事実を見つけ,思いを語るか」語っていたときです。馬に乗って弓の練習をする人,寝殿造りとは異なる茅葺の粗末な家屋敷,堀で囲まれた家,門番のいる見張り台などなどを見つけてくるだろうと語り合っていました。
そんなとき,一人の教師が,堀の外で田植えをしている人たちが,農民なのか,それとも武士なのかが問題にしてきました。概念的なことを言えば,それは「武士」です。半農半武の鎌倉社会を思う時,その田植えをしている人を取り上げることこそ,「武士のくらし」を考えることになるのではないか,と。そんな意見で盛り上がったものの,果たして,そんなところに子どもたちの視線がいくか・・・・そんなことも話題になりました。
ただ,こういう雑談的な議論の仕方を,掲げられた絵図に板書を加える想定作業を通して,教師は予期しない子どもの出方に,少しずつ落ち着いて対応することができるようになるのでした。
ある時は,国語の授業で,ある時は理科の授業で,そんな営みが繰り返されていくのでした。それは「授業者である教師に都合のよい授業を展開するにはどうしたらいいか」というような,教師中心のご都合主義の授業の模索ではなくて,子どもの多様な考えを生かす教師の力量向上につながる営みであったのです。それは孤独な授業者の営みではなく,K小学校の同僚性に支えられた営みであったのでした。
4 同僚による授業参観の日常化――「授業参加」する教師たち
この学校で,いつ頃から始まったのか,はっきり私は知りませんが,学年の教師が授業をするとき,それが公開授業であるかどうかに関係なく,同じ学年の教師が中心になって,その授業を進めるために,手助けしたり応援したりすることをしています。授業を「参観」するだけではなく,メインティ―チャ―に対して,サブの役割を果たしているのです。そこには、約束事があるわけではありません。授業者の先生が,「A先生,私はここでこのことを子どもたちに考えてもらいたいなと思うけれど,どうでしょうか」と子どもたちと授業をやっている最中に,参観している教師に問うのです。
それは一見,子どもの立場から見ると,自分の担任の先生が授業の進め方について,他の先生に知恵を借りている光景として映り,子どもたちが,自分の授業をしている担任の先生を軽蔑するのでは……という心配もないではありません。しかし,K小学校では,そんな危惧はまったく当てはまりません。「それだけ先生も真剣なんだ!」とかえって子どもたちは,担任の先生の姿勢に心打たれます。
さらに,授業者である先生が援助を求めなくても,参観している他の学級の教師が,子どもたちの動きを見ていて,「今,みんながこのことを何で考えるように先生が指示しているか,わかる?」「みんなの音読がひびいているよ。すごいよ」「誰々クンは,そのことについてどう考えているのかなあ,私は聴きたいなあ。担任の先生どうでしょうか」と積極的に授業に介入して行く場合もあります。
このような動きは,K小学校のどこの教室,どこの学年でも見られる光景ではまだまだありません。でもそういう動きが学年体制の中で,あるいは,一部の教師の間で共有化されてきている事実は厳然としてあります。授業参観する教師が,「授業をただ傍観している」姿勢ではなくて,「一緒にこの授業を創ることに加わっている,応援している」のです。
それはやはり,前にも記しましたが,このK小学校の教師たちの同僚性に負うところが大です。子どもたちと一緒に授業をする目の前で,教師同士が真剣に授業に向き合っているということです。そんな姿勢は,幼い子どもたちにも敏感に伝わっていきます。
5 手軽にでき,手軽に活用できる授業記録ノートの存在
K小学校の先生方は,自分が日常的に実践活動をしているときに,何でもメモする,何でも貼り付ける,ノートを持っています。私はたびたびK小学校の先生方のノートを見る機会を与えられました。ある教師は,「日日の授業の板書写真」がぎっしり添付されていて,そこにその板書の仕方や意義について,コメントが書かれているのです。またある教師は,子どもの考えや記録の累積がなされているノートもあります。またある教師は,何でもかんでも,あらゆる雑多な記録が,その教師にしかわからないような形で添付されたり添え書きされたりしているのです。
教師の仕事は,無形な仕事です。ほんとうに力量をアップするためには,意識してそういう日常的な精進を自分に課していく姿勢がないと,なかなかできません。立派な体系的な論文を書いたり,記録化を図ったりすることも重要な取り組みですが,やはり手軽にできて,いつでもどこでも,活用できるノートの存在は,K小学校の教師たちの力量アップに大いなる貢献を果たしています。
6 教育実践の日常化をめざす
私が,このK小学校に長くかかわることができたのは,このK小学校が校長さんや教頭さんに引っ張られて動いてきた経営形態ではなかったということでしょうか。前にも記したすでに退職されているH教頭先生の初期の頃の貢献度や指導力は秀逸のものがありました。しかし,それだけでは長続きしてこなかったと思うのです。
それが長続きしてきたのは,この職場の教師たちの「いい授業がしたい」「子どもたちが賢くなることが歓びだ」「あの子があんなことを発言できるようになってきた!」というささやかであっても,本質的な願いが,地道につながってきたことだと思います。
「教育実践は非日常的な取り組みからは生まれにくい」と,かねがね私は思ってきました。もちろん時には,大いなる希望をかかげて挑むことも大事なことです。しかし,毎日の授業を含めた実践のサイクルが,心地よく回転するためには,職員室が,授業や子どものことを語る場であり,互いに聴き手になったり話し手になったりする「日常性」「同僚性」がなくては,動きません。
この学校が,今後どんな動きをしていくか,それは私の大きな関心事でもあります。大仰なことを望まず,淡々と歩いてほしいと思っています。そんなことを希望する私です。
好評! 前田勝洋先生の“教師の知恵とワザ”の真髄を伝える4部作(黎明書房刊)
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