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トラブルに振り回される夕刻の職員室 |
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懐かしさの中にあるもの―私が教師になった頃― |
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核家族化による一元文化の支配 |
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モンスターペアレントの出現 |
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萎縮する学校教育の現状を憂う |
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教師も保護者も「立ち止まって,考える」ことの大切さを知ろう |
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明日のある日本にしたい |
この連載も25回目を迎えることになりました。これまで,私は,自分が訪問した学校,継続的にかかわってきた教師の実践を軸に綴ってきました。私としては,「学校現場への讃歌」として綴ってきた面が大きいと思っています。
しかし,この25回目の節目を迎えて,どうしても書いておきたいことがあるのです。それは,一言で言えば,「非常識な親にかく乱される学校現場の不幸が,日本人を育てることに大きなダメージを与えている」ということです。もちろん,保護者の中には,誠実に子育てを考え,教師ともども歩もうとされている人もたくさんいます。いや,大部分の保護者はそういう姿勢です。でも学校現場は,今やほんの一握りの保護者の非常識な言動に,たじたじになっているのです。
ほんとうは,保護者だけではなく,マスコミや地域の人たちのバランス感覚に欠けている言動に,勇気ある実践活動が潰されていると言っていいかもしれません。(この問題は,マスコミの煽り的な情報の流し方に問題を強く感じています。ごね得的な雰囲気が,世の中全体に蔓延していて,教育界だけではなくて,あらゆる領域に問題が派生しているように強く思います)
そんなことを私が言うと,「いやそれは誤解も甚だしい」という反論を受けるかもしれません。教師の中にも,ほんとうに非常識で「あれでも教師か」という輩がいるではないか! と。
そのことについては,かつて学校という職場の内部にいた人間として,「まったくそのとおりです。非常識で,教師としての自覚ややる気の欠如した人間がいます」とお答えします。ただ,それにしても学校現場を襲うクレーマーには,「これでは日本の教育はダメになる!」と思うのです。
1 トラブルに振り回される夕刻の職員室
子どもたちが下校して,やっとこれから明日の授業の準備や目の前に控えている仕事をしようとしている教師たちに,職員室の電話が鳴りだします。2台,3台とある電話がひっきりなしに鳴るのです。その中のいくつかは,保護者からの問い合わせです。
その日にあった怪我の状況を詳しく報告する教師もいますが,だいたいの電話が,保護者が教師にたずねてくる電話です。明日の授業の予定,宿題の確認,忘れ物の報告,その日教室であった友だちとのいざこざ,下校時のトラブル……などなど,さまざまです。それは何気ないちょっとしたことであっても,保護者には「ちょっとしたことではない」のです。教師が,ことばの行き違いで,あいまいなことでも言おうものなら,「先生は,その程度のこととして,私の子どものことを思っているのですか!」とすぐに沸点を越えて怒る親もいます。
電話は便利ですが,相手の顔が見えません。ことばだけが飛び交います。私も現職の頃,教職員(ここではあえて教職員と言いますが,それは電話を受け継ぐ事務員さんを含めているからです)に,「うれしいことや喜ぶべきことは電話でいいですが,困ったことや,心配なこと,トラブル,病気や怪我などは,家庭訪問してください」とお願いしたものです。
中には,「校長を出せ!」と力む親もかなりいます。「校長はうちの子どもがトラぶって,泣いていることを知っているのか」と怒鳴りこむのです。
私も700名からいる学校の子どもたちのことで,その日にあった状況をそんなにも詳しく知り得ていません。「まだ十分状況を承知していませんので,担任の先生に聴いてから,もう一度お電話します」とかなんとか言おうものなら,「オレの子どもは泣きじゃくって死にたいと言っているのだぞ,校長はその程度の判断しかしないのか!」と威嚇されたことも,多々ありました。
私が訪問する学校の校長,教頭さんを含めて,職場のみなさんが,そんなトラブルに振り回されている夕刻時を,私は,「これでは,教育現場はつらい」と思わずにはおれません。
2 懐かしさの中にあるもの―私が教師になった頃―
いつの頃から,学校への苦情,教師いじめが激増してきたのでしょうか。少なくとも,私が教員になった昭和40年代にはなかったことです。私は新任教師として,中学校に赴任しました。そこでは,今は禁句である体罰もどきのことを多々した自分がいます。
あるとき,私は中学校3年生を担任していた中の一人の悪がきを,叱り飛ばしていました。胸倉をつかんで「おまえはなんでそんなことをするんだ!」と揺さぶったのです。そのとき,彼の襟もとが破れてしまったのでした。私は虚をつかれ,家庭訪問をして新品のシャツを母親に手渡そうとしました。
母親は,「先生,そんなことせんでもいい。私は先生をおがんでいます。わたしの子どもが悪いんだから。」「先生,これからも見離さんで叱ってやっておくれ」母親は何度も何度も末っ子のほうを指さしながら,言ったのでした。
帰り際,祖母が出てきて,干し柿を新聞紙にくるんで「先生,これウチでなった柿じゃが,持っていってくだされ」と腰を折って言われたことを今でも思い出します。「ワシは毎朝毎朝,『みんなと仲良くやるんだぞ』と言っとりますが,言うことをきかんかったら,先生,叱って下され」と祖母から顔をくしゃくしゃにしながら,泣くように言われたのでした。私は,何度も何度も頭をさげながら,よりいっそう自戒できる教師にならなくてはならないと,強く思ったことでした。
自分が短気であるがゆえに,子ども(生徒)に暴言を吐き,胸倉をつかんで殴ろうとしていた自分。それを許してくれている家族。私は気恥ずかしさで,「こんな自分でも先生と思っていてくれている」と感激し涙したのでした。
「なんとしても精進しなくてはならん」若気の至りでは許されないはずの自分を許してくれていることに,私の教師人生は凝縮されていると言ってもいいかもしれません。その後も,同じようなことを相変わらず繰り返す私でしたが,「こいつらをなんとかしたい。いや絶対がんばって・・・」と誓ったのでした。
3 核家族化による一元文化の支配
昭和50年代の半ばになると,「学校の荒れ」が世間を騒がせました。それと同時に登校拒否(今は不登校と言います)や「いじめ」の問題が取りざたされていきました。多くの保護者は学校や教師に同情的ではあっても,その一方で,「うちの子がこんなになったのは,学校のせいだ!どうしてくれる」「先生が,うちの子を殴ったから,子どもだって自暴自棄になってしまったのだ」と自分の子どもが非行に走ったツケを教師にぶつけてきました。「先生が怖いから,うちの子はひきこもりになってしまった」と不登校の親の叫びが教師を責めたてました。
確かに,教師自身の営為が,「変わらなくてはならない」転換期にきていました。強い生徒指導から,子どもに寄り添った生徒指導が,識者から声高に喧伝されました。多くの学校で戸惑いや困惑が噴き出していました。
しかし,私は思うのです。それでは,「家庭には責任はないのか!」ということです。核家族化が進み,「イエ」の中は,母親や父親の一元的な文化が支配するようになったと思うのです。児童虐待は,すでにその頃からありました。ネグレクトと呼ばれる育児放棄もあったのです。そんな中で,子どもたちの成長はバランスを失っていました。一元的な家庭文化に支配されて,それに服従しないと生きられない子どもたち。祖父母同居に寄る二元論的な子育てがなくなりました。寛容度の低い,一元的な価値判断しか存在しない家が増えていったのです。家庭は,子どもに癒しの場を与えることができなくなってきていました。
もちろん大多数の家族は,それでもちゃんとした「しつけ」をして,学校へ子どもを送り出していましたが。だから「核家族化」がすべての悪の元凶なんて思っていません。しかし,子どもを授かり,ある日突然親になった大人が,子どもをペット化してしまっていたのではないでしょうか。
親になった大人もそれなりにストレスをため込む状況がそこに生まれていったのです。思うように育たないわが子を疎ましく思ったり,強引に有無を言わさず支配したり……そんな家庭崩壊の兆しが,あっちこっちに出現したのです。
私は,その頃よく教師たちに「親の愚痴を聴いてあげることができるようになったら,教師も一人前だよ」と言ったものです。核家族化した中で,ストレスをため込んだ母親は,発散できないままに,悶々とした日々を送るしかなかったのです。
4 モンスターペアレントの出現
「先生,なんで先生は隣りの先生のようにやってくれないのですか?」「先生,教科書を使って教えてくれていませんね。違反ではないですか?」「先生,百マス計算を使って教えてくださいよ」「先生,我が家は塾通いが中心ですから,宿題は出さないでください」「先生,うちの子が,先生の体は臭いというのですよ。もっと清潔感のある先生になってください」「子どもを産んだことのない先生には担任してほしくないですから,校長先生,担任を替えてください」……
「ウチの坊主が6年生に殴られたんだよ。先生,そいつらを出せよ。おれが殴ってやるから」「てめえら,教育者かよ,おまえみたいなアホに先生が務まるはずはない!」「子どもが先生を怖がっています。やくざのようなことばづかいをやめてください」「うちの子は,好き嫌いが激しいのです。だから給食を無理強いしないでください」「子どもがマラソン大会をすると自殺すると言っています。だから今度のマラソン大会を中止してほしい」……
私が訪問している学校の教師のみなさんから聴いた一端を,並べてみました。ほんとうにこんなことを言ったりしたりしているのだろうかと思えるような言動も多々あります。それでもそれが事実です。それらに共通していることは,あまりに自己中心的な考えです。エゴむき出しの言動です。ごね得を承知しての言動です。心底教師へ相談したり情報を流したりして,子育てを「共有」する雰囲気はありません。
多くの教師は,こんな保護者にどう向き合っていったらいいのでしょうか。私にもまったく妙案はありません。
多くの教師は,それでもなんとか平身低頭して,そんな保護者に耳を傾けます。
5 萎縮する学校教育の現状を憂う
私は,年間100回程度あっちこっちの学校へ行って,授業を参観したり懇談したりしてきています。多くの学校での教師の資質は,私たちが教師になったころよりも,向上しているように思います。しかし,実践への取り組みとなると,どうも消極的な実践活動になっていると言わざるを得ません。熱血漢のような教師も影をひそめて・・・・部活動などでわずかにそんな片鱗を感じつつも,明らかに萎縮した教育実践になってきているように思います。
「今の教師は気の毒だ」「保護者や子どもたちも,教師を信頼できないのは不幸だ」と思うのです。子どもたちが一人一人違うように,教師も違います。しかし,その違いというその教師ならではの「持ち味」が発揮できなくなってきています。積極的な教育活動をしようとしても,どこかで批判されるのではないか,といつも子どもや保護者の視線を気にする傾向が強くなってきています。ましてや「個性的な教師」は,排除されるのです。
勢い,教師たちは,子どもたちを「育てる」ことに憶病になります。まあまあ主義の教育実践になります。私はそれを「甘くて冷たい教育」と名付けています。ほどほどの仕事として,教師はつつがなく動きます。それしか自分の身を守るすべがないのです。
私は,「教育は人が人間になる時と場だ」と思うのです。
ずっと以前から,「学校は,たのしいところであらねばならぬが,歯を食いしばって涙をこらえてがんばるところでもある」と言い続けてきました。別のことばで言えば,「厳しくかわいがる」教師になってこそ,教育の仕事は,意味をなしてくると思うのです。
私は訪問する学校,学校で,「学校よ,よみがえれ」「教師たちよ,勇気ある実践を」と問い続けています。しかし,それはかなり教師たちに負担感のある願いになっているとも言えます。
6 教師も保護者も「立ち止まって,考える」ことの大切さを知ろう
私は,人間が「育つ」ということは,ほんとうに長いスパーンで見守る姿勢がないと,できない営みであると思っています。短絡的な判断であれこれ結論的に言うべきではないと思うのです。
もう一度言います。学校教育にたずさわる教師たちが,みんなみんなすばらしい教師たちではありません。中には,教育界から去ってほしい教師も多々います。
それでも私が学校や教師たちを擁護するのは,「保護者と教師との信頼関係の構築無しには,教育活動は,不毛になる」ということです。
保護者には,怒りを爆発させたい衝動にかられることも多々あることでしょう。しかし,そんなとき,「待てよ」と一度立ち止まって考えてほしいのです。
「何でうちの子をあのように先生は扱ったのか」を自問自答してほしいのです。
怒りがこみあげてくるそのときを,直接担任教師や学校にぶつけるのではなくて,じっくり考える余裕を持ってほしいのです。それから話し合いをもつべきです。
教師も人間です。感情的な怒りには,反駁しかありません。あるいは平身低頭して萎縮するしかありません。もっと教師を上手に操縦する保護者になってほしいのです。
教師も保護者も,「立ち止まって,考える」時間を持ちましょう。
私は心から,そんなことをお願いしたいと念じています。
ささくれだった世の中にしたくありません。「絆」ということばがことばだけで終わることなく,みんなでどこか共感しあえる世の中にしたいものだとしみじみ思うのです。
7 明日のある日本にしたい
今私たちの住んでいるこの日本は,大きな災害を受けて,さらに深刻な事態になってきています。先のことを考えると,暗澹たる気持ちに身も心も打ち沈んでしまいます。今育ちつつある子どもたちが,果たして生きていく将来は,どんな世の中になっているのでしょうか。先の読めない不透明感の強い不安感が襲ってきます。
しかし,それでも子どもたちは生きていかなくてはなりません。北風の吹きすさぶ中で,試練や挫折に耐えて生きていかなくてはなりません。失敗してもつまずいても起きあがる「たくましさ」「やわらかさ」「やさしさ」を養生していかなくてはなりません。
資源のない我が国で,唯一の資源は,人材です。まさに「人財」です。私たち大人は,今や大きな曲がり角にきていると思うべきです。新たな価値判断で生きる時代が目前に来ています。
保護者のみなさんにお願いしたいことは,自分の子どもだけのシアワセ感はあり得ないということです。みんなが幸せになってこそのシアワセ感です。
教師のみなさんにもお願いしたいことがあります。自分が,ただ教科書の学習内容を教え込むマシーンになるような,浅はかな教師にならないことです。大切な大切な未来を担う子どもたちを育てる使命感に,燃えて燃えて……精進してほしいと念願しています。親が怒鳴ってきたら,「お母さんも今とても苦しんでいるのだ」と共感的に受け止めて,ジタバタせずに悠然と構えてほしいのです。
さあ、私たちは,もう一度「立ち止まって」一歩一歩歩きましょう。
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