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前田勝洋 教育を拓くG
学校経営の舞台として,『授業道場』を開く

−学校の営業は授業だ−

校長の信念
A校長,「授業道場」を開く
「授業道場」は続く
教室を開く教師たちにしたい
校長の責任


 私はかねがね「学校の営業は授業だ」と機会あるごとに,言い続けてきました。それは,私の現職の頃の大きな経営の柱になっていました。

 それは,単に自分の学校の教師たちに向けての「呼びかけ」に終わらせたくないと思いました。

 多くの学校で多くの校長さんを含めた学校のリーダーたちは,「授業の大切さ」を,口を酸っぱくして語っています。私自身の仕えた校長さんたちの多くも,そんな話を機会あるごとにされてきました。

 しかし,校長さん,自らが,「授業実践」にかかわったり,自分で授業を行ったりするという話になると,なかなか「そんな校長さんはいない」ということになります。つまり校長さんは,教師たちに「あなたする(授業する)人,私(校長)やらせる人」としてのイメージしかないのです。

 校長さんの中には,「校長たるもの,雲間の月くらいでちょうどいい」と言われる始末です。つまりときどき「顔を出す月」のごとく,学校の中に存在していればいいと。しかし,今の世の中は,そんな呑気な校長さんの学校経営姿勢を歓迎するでしょうか。校長さんは,学校経営の形式的な責任者だけではなく,実質的な学校経営のリーダーになるべきではないかと思うのです。

 それは,授業実践において,学校行事の推進において,「教職員と苦楽を実質的に共にする」校長こそが,求められているように思うのです。

 ここでは,まだ校長職になって日の浅いA校長さんのリーダーシップを紹介しながら,考えてみたいと思います。

1 校長の信念

 私の住んでいる市内のI小学校では,今年度の異動で,A先生が,校長職になりました。


 A先生と私とは,ずっと以前に,A先生が教務主任として中学校に勤務していたころからの知り合いです。当時,県の教育改善事業として,教職員の資質向上をめざして,『授業名人事業』なるものが,行われていました。A先生の勤務する学校が,その指定校になったのでした。「前田先生,そんなわけで,わが校の若い教職員を中心にした授業改善に,どうぞ力を貸してください」と当時の校長さんの依頼で,私は,その学校に年間10数回の訪問をしたのでした。

 『授業名人事業』は,私が授業参観するだけではなく,実際に私が,授業に「介入して」一緒に(それはまさにティ―ムティ―チングのように)授業を行っていくことによって,授業者の資質向上を図るというものでした。そして,授業後には,その授業の実際を振り返りながら,よりよい授業の仕方を求めようとするものです。

 その機会を私は,教務主任であるA先生のリーダーシップ力の向上につなげたいと思っていました。だから,A先生には,いつも授業中には,私と一緒に「授業参観」をするだけではなく,「授業参加」して,実際の授業に加わってほしいこと,さらに授業後の協議には,まずは,A先生に「指導助言」の発言をするように求めました。A先生もそれを快く引き受けてくれて,その事業は1年間で大きな成果を得たのでした。

 そのA先生が,校長職になったのです。A先生には,大きな「夢」がありました。A校長先生の出す校長だよりが,『根っこを育てる』であるように,子どもたちの育ちの土壌をしっかり地道に耕していくことを願っていました。

経営活動の根幹に授業を据えて取り組もうと,教職員に働きかけて行ったのでした。それを,A校長先生は,かけ声だけで終わることなく,自ら「授業道場」を開こうと決心したのです。「道場」は,もちろん「子どもたちのいる教室」です。その教室で,A校長先生自ら「授業を行う」というものでした。それはまさにA校長先生の信念としての経営活動の一環として出発したのです。

2 A校長,授業道場」を開く

 A校長先生は,全校の教師たちに呼びかけて,「道場入門」を許してくれる教室を求めます。その第一弾は,5月末に実現したのです。4年生の算数の割り算の授業への挑戦でした。その時の「校長だより」から,その時の状況を再現してみましょう。

学習課題は,「全員が,わり算の達人になろう!」です。「8÷2=4を,わり算を習っていない低学年の子に,絵や図を使って,わかりやすく説明しなさい」という指示から始めました。そして最後には,小学6年で習う0.8÷0.2や中学1年で習う −8÷(−2)のわり算まで挑戦しました。それは一見無謀な挑戦でもあったのですが,子どもたちは,ほんとうに一時間目を輝かせて,授業に集中してくれました。
導入のところで,「□÷○=4となる式を2分間で,5つ見つけよう」という活動のときには,フリーズして鉛筆すら持とうとしなかった子どもが,隣りの子のサポートや私の助言で,少しずつですが取り組み始めたのです。そして,授業の振り返りでその子が,「きょうの授業は,難しかったけれど,すごく楽しかったです」と発言してくれたときには,A先生自身大きな感動をプレゼントしてもらった気持ちになったのでした。

その「授業道場」に参加した子どもたちの感想を,少し引用してみましょう。

きょうの算数の授業は,すっごくたのしかったし,むずかしかったし,わかりやすかったです。
お兄ちゃんは,今中学校2年生です。なので,お兄ちゃんにマイナスのわり算のやり方を説明してもらって,お兄ちゃんがわからなかったら,私がお兄ちゃんに説明してあげます。
中学校の問題「−8÷(−2)=?」をやってみて,ぼくは,答えが「−4」になると思っていたけれど,図に描いてやってみたら,「4」だったので,びっくりしました。図とかキーワードを大事にすれば,かんたんにできることがわかりました。すごく感謝しています。
私は,わり算ってやりにくいなと思っていました。でも校長先生の話を聴いて,やってみたら,やりやすいと思いました。校長先生がくわしく,やりやすいようにしてくれて,みんなを達人にしてくれました。

ここには,子どもたちの素直で新鮮な学びの感動があります。

その授業を参観した職場の教師たちも,「校長先生の積極的な授業実践」に大きな感動を得たことは,言うまでもありません。「校長先生も私たちと一緒に実践してくれてうれしい」「苦楽を共にしてがんばってくださって,私もがんばらなくてはと強く思いました」と週案簿に書き綴りました。

3 「授業道場」は続く

 その後も,「授業道場」は,あっちこっちの教室を「道場」にして,開かれていったのです。A校長先生のすごいところは,模範授業をするという姿勢で,行っていないことです。次のような例を紹介しましょう。

 6年生の国語で,子どもたちの一番苦手としている作文の授業に挑戦したときにことです。A先生は,図らずも延長授業をしてしまったのです。そのときのことを「校長だより」から引用します。
 
 ……私が常々,若い先生方に戒めている延長授業をやってしまったのです。
しかも大幅な延長を。子どもたちの休み時間を奪う延長は認められません。
子どもたちにチャイム着席を要求する以上,教師もチャイムで授業を終わら
せなくてはダメ,というのが,私の持論であったのに……。

 もともと2時間でやるべき内容を,なんとかコンパクトに1時間でやれな
いかと思ったのが間違いでした。めあてが「全員が,作文の達人になろう!」
だったので,全員が作文を書き切り,誰かに読んで評価してもらうまでたど
り着きたい……そんな思いがあって,やむを得ず延長してしまいました。

 こんなA校長先生の素直で謙虚な反省点の吐露は,職場の教師たちに共感的に受け止められていきました。

何よりも,子どもたちが授業後に書いた感想には,「6年間で一番たのしかった国語の授業でした。」「友だちの作文を読むと,やはりたのしくわかりやすい文章を全員が書けました。今までは作文は嫌いな学習だったけれど,なんだか好きになってきました。」「今度,新聞を読んで,論説文をさがしてみたいです。」などと,きわめて新鮮な感動を持って「授業道場」の感想を寄せていたのです。

 A校長先生の「授業道場」は,まだまだ始まったばかりです。しかし,I小学校の教師たちには,「授業こそ学校のいのちだ」という思いを,心底学ぶ大きな,そして刺激的な機会になっていったのです。「授業道場」は,A校長先生の学校経営の舞台になりつつあります。

4 教室を開く教師たちにしたい

 私が初めて校長職になったとき,「教室に授業参観に行っていいですか」と問いました。多くの教師たちはしぶしぶ黙認してくれたのです。

 ところがある日,年輩の女性教師が,「ちょっと校長先生にお願いがあります」と校長室にきました。話の内容は,「校長先生(前田)が授業参観に来ると,とても緊張して授業ができなくなる」「私は授業が下手だから,見られるのが恥ずかしい」「だから,あまり授業参観をしないでほしい。できればやめてほしい」ということでした。
 
 私はとても驚きました。私は心の中で,<何を言っているんだ! 授業をする教室を開かないことは,授業を密室の謀議にしようとしていることではないか!>とたいへん腹立たしく思いました。

 でも少し思い直してみると,ふたつのことを思ったのです。

 つまり私が授業参観するときの顔つきが問題ではないか,苦虫をつぶしたような顔つきで教室に行っていないか,ということです。もっとその教師のいいところ見つけをしようと動くべきだった,そうでないと授業をしている教師たちが硬くなるのでは……と思いいたったのです。

 さらに加えて言えば,年輩のその女性教師は,「いい授業」をやることも「今更考えてもできない」というあきらめです。
 そんなことを思うと,学校のもっとも核心的な部分において,学校経営が大きな病巣をもっているようにさえ思えてくるのです。

 私は,なんとしても,教師たちに「授業実践へのひたむきな精進」を自分の身を持って,訴えていくしかないと思ったことでした。

5 校長の責任

 「学校は零細企業」であると思っています。そのことを私は職場の仲間に機会あるごとに言いました。30名内外の教職員が,仲違いをしていたり,仲間の同僚性が欠落していたりして,果たして学校経営は機能するだろうかということです。

 校長も教頭も一緒になって,学校経営に「苦楽を共にしない限り」学校は元気にならないし,活性化していきません。その中心が授業なんです。そこから「逃げている校長,教頭」先生はいないでしょうか。私にはそのことが気になるのです。

 担任を外れた年齢になったり,立場になったりしますと,授業が遠くなります。授業を見届けないままに,学校は「平然」と動いていきます。校長,教頭は,「雑用」に追いまくられて,授業も子どもたちのことも,担任教師たちにお任せになっていきます。

 体罰,いじめ,事故事件,教職員の不祥事が起きるたびに,「真面目で熱心な教師だった」という答弁がなされます。ほんとうに,校長,教頭は,その教師,その子どもたちを見ていたのでしょうか。その教師の言動に注意を払っていたのでしょうか。要するに察知しないままに過ぎて行ったのではないでしょうか。いじわるな見方ですが,そんな体験的な判断を私はしてしまうのです。

 「校長や教頭の責任」を,自分は何をどうしていくことによって果たしているのか,私はもう一度ほんとうに,本気になって振り返る学校になってほしいと思うばかりです。






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